解決できない経営課題はない
物の見方や前提を変えれば、必ず乗り越えられる

嘩早いが“弱きを助け強きをくじく”

櫻田 小西社長は、フューチャーグループでは私の大先輩でいろいろお世話になっています。若い頃から、随分と“やんちゃ”で、数々の武勇伝もあるそうなんですが。

 

小西 真っ昼間から、そんな話をしていいのかな。まあ、話をするのは、何とか活字にできそうな範囲内、ということで(笑)。

 

櫻田 まず生い立ちからうかがいますが、ご出身は広島県の尾道でいらっしゃいますね。

 

小西 尾道は海と山が近く、坂がとても多い街で、僕の生まれ育った家は、坂の下から石段を200段くらい昇ったところにあるんです。通学のときなど昇り降りが大変でした。

 

櫻田 なるほど。でも、尾道は風光明媚で、映画の舞台になったりして、素敵な場所ですよね。どのようなご家庭で育ったのですか。

 

小西 尾道の実家は、江戸時代から続く商家で、呉服のほか、千石船などの帆に張る帆布を扱っていたそうです。うちの先祖のことは、司馬遼太郎さんの『菜の花の沖』(江戸時代の豪商、高田屋嘉兵衛が主人公の歴史小説)にも、出てくるそうですよ。

 

櫻田 生まれながらに、商人の血が脈々と流れていたわけですね。

 

小西 父は次男で、サラリーマンだったんですが、当時の実家は大家族で、祖父や親戚と一つ屋根の下で暮らしていました。古い商家という環境の影響は受けたかもしれません。

 

櫻田 やんちゃだったのも、小さい頃からですか。

 

小西 まあ、そうですね(笑)。僕は図体がでかくて。それに、喧嘩早やかったんです。口より先に、手が出る。言い訳させてもらうと、“弱きを助け、強きをくじく”タイプでしたけどね。でも喧嘩は中学2年を境に、ピタリと止めました。

 

櫻田 それはどうしてですか。 

 

小西 「いつまでも、そんなことをしている場合じゃない」と、ふと思ったんです。喧嘩を売られてカッとなっても、まず我慢。「1、2、3…」と10まで数えて、腹の虫をおさめるようにした。すると、2~3カ月で、喧嘩相手もあきらめた(笑)。そのあと、殴り合いの喧嘩をしたのは、1度くらいでしたかねえ。

 

 

学園紛争の嵐の中で公認会計士を目指す

櫻田 高校卒業後は、早稲田大学商学部に進まれました。ご実家が商家だったことで、ビジネスに興味があったのでしょうか?

 

小西 そうでもないんです。実は、工学部の建築学科に行きたかったんですね。叔父に有名な建築家の方がいて、憧れがありました。父は「自分の好きな道を選べ」と言ってくれ、広島大学工学部と早稲田大学理工学部を受験したんですが、どちらもすべってしまった。早稲田の商学部は、「せっかく東京に行くんだから、ほかの大学も受験しろ」と先輩に言われ、数学で入試を受けられたので、たまたま受けただけなんです。そうしたら、合格したわけです。

 

櫻田 学生生活はどうでしたか。

 

小西 当時は、ちょうど学園紛争の嵐が吹き荒れ、もちろん早稲田もロックアウト。1~2年のときは講義がなく、ほとんどの科目がレポート提出でした。だから、アルバイトやバンド活動に明け暮れる毎日で、下宿にいるときは麻雀、夜になれば酒盛りばかりしていました。

 

櫻田 とはいえ、大学卒業後、すぐに公認会計士になっていらっしゃるじゃないですか。どうやって難関の試験を突破されたんですか。

 

小西 3年から、大学に行く代わりに、公認会計士試験受験の専門学校に通ったんです。人気ゼミに入れず、「もう大学に行っても仕方ない」と思って下宿先の先輩に相談したら、「それなら公認会計士の試験を受けてみたら」と、予備校を紹介された。予備校の友人たちに触発されて、勉強に励んだのがよかったんでしょうか、2年目にめでたく合格。大学のほうも、無事4年で卒業できました。

 

 

簿記の用語は世界共通苦手な英語で外資で活躍

櫻田 大学卒業後は、米国系会計事務所のアーサー・アンダーセン(アクセンチュアの前身)に入所されます。

 

小西 外資系が珍しく、つい興味を持ってしまったんです。卒業するとき、すでに結婚が決まっていたので、就職しなければならなかった。それに公認会計士になるには、試験に合格してから3年間の実務経験が必要なので、東京の会計事務所にでも入ろうと考えていました。アンダーセンの説明では、「中学レベルの英語がわかれば大丈夫」というので入ったのですが、読み書きは全部英語。とんでもありませんでしたね。

 

櫻田 アンダーセンでは、米国勤務も経験されました。

 

小西 入所1年後に米国研修があったんです。最初の2週間は本部(シカゴ)での集合研修。これがビジネススクール並みのハードさで、毎日、午前2時まで予習しなければ、翌日の講義についていけない。その集合研修のあとは、米国内の事務所で実地研修を受けました。僕はサンフランシスコに配属され、現地には日本人駐在員も多かったので、夜は一緒に遊んだりして楽しかったですよ。結局、米国には1年間滞在しました。

 

櫻田 その間に語学力にも磨きがかかった?

 

小西 とんでもない。英語は苦手でしたよ。それでも会計士の仕事ができたのは、会計基準が万国共通だったからでしょうね。つまり、お互いの言語が通じなくても、簿記の用語が“共通語”なので、それを介して、相手とのコミュニケーションが取れたんです。

 

 

交通事故から天命を察し役員としてフューチャーへ

櫻田 国際派の会計士として活躍されていたのに、1985年にアンダーセンから独立されています。

 

小西 入所当初から「いずれは広島に帰ろう」と考えていて、8年後には辞める決心をしていました。ところが、担当していた上場企業の後任を育てて引き継ぐのに、それから3年かかってしまいました。

 

櫻田 広島で会計事務所を開業されましたが、最初はどんな状況だったのでしょう。

 

小西 開業後2年くらいは仕事が少なくて、利益はほとんど残らない。収入はアンダーセン時代の10分の1くらいになったんじゃないかな。

 

櫻田 それは大変でしたね。

 

小西 妻には苦労をかけました(笑)。でも、中小企業の困りごとの相談には何でも乗っていましたから、おかげさまでクライアントもだんだん増えていきました。当時は経営コンサルティングが中心で、広島だけでなく全国を飛び回っていましたよ。社外役員を引き受ける機会も多くなりましたし。

 

櫻田 その一つが、フューチャーシステムコンサルティングだったわけですね。

 

小西 そうです。95年から非常勤取締役として関わるようになりました。

 

櫻田 そして、2001年に経営企画担当の常務執行役員としてフューチャーに入社され、経営に本格的にコミットされるようになった。何かきっかけがあったのですか。

 

小西 僕は2000年に交通事故に遭って、九死に一生を得たんです。生き延びられたのは、「余生で社会に役立つことをせよ」という天命だと感じました。そこで、顧問先の中で若い社員が最も多かったフューチャーで、自分の培ってきたノウハウをすべて伝えようと考えたのです。入社時には3年で辞めるつもりだったんですが、02年の東証一部上場、07年の合併と、企業としての正念場が続き、結局、08年までフューチャーにお世話になりました。

 

 

上場の陣頭指揮将来の種まきも

櫻田 その後、御社のトップに就任されました。

 

小西 この会社は、僕の同級生が作った会社でね。その縁で経営を任されたんです。上場を控えていたこともありました。僕が陣頭指揮を執って、11年にマザーズ上場、その翌年は東証一部への市場変更を実現させました。そもそも、十分時価総額はありましたし、すぐに東証一部に上げるというなら、上場準備も一気に終わらせたほうが効率的ですから、2年連続で株式上場の作業をしてもらったんです。

 

櫻田 経営のトップとして、ご自身の役割をどのように考えていらっしゃいますか。

 

小西 ひと言で言えば、将来への種まきですね。一つめは次代を担う経営陣の育成です。傘下の事業会社の社長には、30代の若手も抜擢しています。二つめは新規事業のシーズを育てておくこと。事業会社の社長は、目の前の仕事にかかりきりなので、僕たちが育ててあげないといけない。それと、リスクヘッジのために、シーズは複数残しておかないといけません。三つめは将来の企業経営に役立つ人脈づくりでしょうか。

 

櫻田 小西社長のこれからの目標は何でしょうか。

 

小西 僕は人生で、仕事上の黄金期は45~55歳で、うまくいけば、65歳まで仕事を続けられると考えているんですね。自分はもうすぐ65歳ですから、65~75歳の次の人生の目標を探しているところです。

 

櫻田 最後にアドバイスをお願いします。正直なところ、私も経営者として、難題に直面することも往々にしてありますが、そんなときの心構えを教えていただけないでしょうか。

 

小西 僕はね、解決できない問題はないと考えているんですよ。解決できないのは、解決法が見つかっていないだけ。物事の見方や思考の前提条件を変えれば、違った結論が導かれるはずですから。プレッシャーを楽しめるぐらいにならないと、社長は務まらないよね。

 

櫻田 小西社長のお話はとても興味深かったです。経営者としても大いに勉強になりました。本日は誠にありがとうございました。

 

 

*『CEO社長情報』vol.19掲載

 

|ゲストプロフィール

小西直人(こにし・なおと)

1951年広島県尾道市生まれ。早稲田大学商学部卒。公認会計士。73年、アーサー・アンダーセン・アンド・カンパニーへ入所し、米国サンフランシスコ事務所勤務等も含め11年在籍。その後、フューチャーアーキテクト株式会社にて取締役常務執行役員CFOを務める。2009年、ポールトゥウィン・ピットクルーホールディングス株式会社を設立し、現職。設立から3年10か月で東証1部上場を果たし、海外M&Aをはじめグローバル展開を推進中。

 

 

ポールトゥウィン・ピットクルーホールディングス株式会社

設立●2009年2月2日
資本金●12億3616万6800円
売上高●147億53百万円(連結)
住所●東京都新宿区西新宿2-4-1 新宿NSビル11F
電話●03-5909-7911 
URL●http://www.poletowin-pitcrew-holdings.co.jp