アルギン酸のスペックは500種類以上。

あらゆるニーズに応える“誠実さ”で価格競争に打ち勝つ

無尽蔵な海洋資源で日本の復興に役立てる

櫻田 キミカさんは、アルギン酸では世界有数のメーカーとうかがっております。創業されたのはお父様だそうですが、そのきっかけから、まず教えていただけますか。

 

笠原 父は第二次世界大戦のとき、満州に出征しました。戦争で、資源が乏しい日本の悲哀をつくづく思い知らされたようです。日本に帰還して、千葉県の海の近くで療養していたんですが、海岸では大量のカジメ(海藻の一種)が獲れていたそうです。カジメは食べられないので、戦後の食糧難でも、誰も見向きもしない。そこで、父は、「こうした無尽蔵の海洋資源を何とか活用できないか。そうすれば、日本の復興に役立つのではないか」と、考えたみたいですね。海藻には、アルギン酸が豊富に含まれているので、海藻からアルギン酸を抽出し、工業化する事業を始めたわけです。

 

櫻田 笠原社長からは当時、お父様のお仕事ぶりは、どのように見えていたのでしょうか。

 

笠原 父は凝り性と言いますか、寝ても覚めても、アルギン酸のことばかり考えているような人でした。自宅で食事をしているときでも、アルギン酸の実験が気になり、中座して様子を見にいってしまうんですよ。ところが、あるとき、「お父さんは、アルギン酸のことが本当に好きなんだね」と言ったら、ものすごく怒られまして。「俺は仕事だからやっているんだ! 好きな本でも読んでいたいに決まっているだろう」ってね。

 

 

大学時代は体育会仮進級で4年生に

櫻田 その頃から、お父様の会社をいずれ継ごうとはお考えになっていましたか。

 

笠原 いいえ。メーカーを継ぐんだったら、大学の工学部とかに進んだほうがいいわけです。ところが、私は子供のとき、理系の科目が大嫌いでして、自分には向いていないだろうと。

 

櫻田 しかし、実際には、東京理科大に進学されました。もしかして、お父様に説得された?

 

笠原 いいえ。確かに、文系の大学に行きたいと言ったら、反対されましたが、父が勧めた理由はこうでした。「自分は独学で化学を学んだのでとても苦労をした。化学は設備の整った大学で、優れた教授陣から学ぶのが一番だ。理系の研究室に入れば、人脈ができ、将来いろいろ助けてもらえる」と。

 

櫻田 なるほど、会社を継いでほしいと、ストレートにおっしゃったわけではないんですね。

 

笠原 内心では、期待していたのかもしれません。でも、父の言い分にも一理あると思ったので。

 

櫻田 東京理科大では、どんな学生生活でしたか。

 

笠原 私は、実は体育会系でして。当時は東京オリンピックの影響で、重量挙げが注目されていたこともあって、大学ではウェイトリフティング部に入ったんです。途中で腰を痛めて競技からは離れたんですが、体育局(理科大の体育会)の事務方の仕事をするようになりました。そうしたら、局長を引き受けるはめになり、勉強どころではなくなってしまった。留年も覚悟したんですが、大学もそういった私の事情をくんでくれたのでしょう、4年への仮進級を認めてくれました。ただ、仮進級なので、困ったことに研究室に入れなかったんです。やむなく提携先の東京大学の研究室に、研修生として入りました。

 

 

理科大、東大、早大で人脈、情報源を広げる

櫻田 東大の研究室はどうでしたか。

 

笠原 スタッフが50~60人いて、研究体制が充実していました。英語で論文をやり取りしていたりして、「さすがに東大はグローバルだな」と。大学院に進むことになったのも、東大の研究室に入ったことがきっかけですね。

 

櫻田 と言いますと?

 

笠原 「理科大の学部レベルの学力では、世界に通用しないな」と感じたんです。それに、東大の助手に“実験の鬼”みたいな人がいて、「夏休み返上で実験をしてもらうが、大学院を受験するなら免除する」と言われたんです。夏休みが欲しかったので、大学院を受験することにしました。東大も受けたんですが、なぜか早稲田大学に合格してしまったんです。

 

櫻田 理科大、東大の次は、早大ですか。理科大や東大と比べてどうでした?

 

笠原 理科大と東大はどちらも研究一筋で、たとえば、理科大の卒業生は、大半が技術者や教員になります。ところが、早稲田の場合、卒業生の進路は、理系ながら、新聞記者や編集者、商社マンとバラエティに富んでいる。私にとっては、この時代に得た人脈が、大きな財産ですね。卒業後にマスコミの友人と飲みに行ったり、商社に行った後輩と世界を回ったりしたんですが、多角的な視点で物事を見られるようになるし、情報源も広がります。事業でも大いに役立っています。

 

櫻田 大学院卒業後は、持田製薬に入社されました。

 

笠原 当時、日経優良企業ランキングで第1位になるなど注目されていました。それに、石油化学のような無機化学と違って、製薬は生物を扱うファインケミカルなので、興味があったんです。

 

櫻田 持田製薬では、どんなお仕事をされていたのでしょう。

 

笠原 最初に配属されたのは、診断試薬の製造部門でした。隣には、インターフェロンの開発部門があり、当時は世界最先端の研究をしていて、興味を持ちました。そこで、半年後、自己申告でインターフェロンの開発部門を希望したら、すんなり異動になったんです。上司はとても厳しい人で、仕事は大変でしたが、充実していました。

 

 

家業を引き継いだときは経営の“四重苦”状態

櫻田 ところが、持田製薬はわずか2年で退職、お父様の会社を継がれることになりました。

 

笠原 父ががんで倒れ、余命数ヵ月と宣告されたんです。父も、後継ぎのことはゆっくり考えるつもりだったようですが、急なことだったので、とりあえず、私が後始末をすることになったんです。

 

櫻田 経営を引き継いだとき、会社はどんな状態だったんですか。

 

笠原 最悪でした。経営を取り巻く環境は、まさに〝四重苦〟の状態でしたね。一つは原料調達ができなくなったこと。南米の海藻の主要産地が、エルニーニョの影響でほとんど壊滅してしまったんです。二つめは大口販売先を失ったこと。当時、海藻の残渣を、自動車部品の鋳型用の副資材として販売していたのですが、技術の進歩で不要になり取引きがなくなりました。三つめは環境規制。東京湾の水質基準が厳しくなり、工場の廃水を放出するには、億円単位の投資が必要でした。四つめは価格競争です。きわめて価格の安い中国産のアルギン酸が市場に出回るようになったため、アルギン酸の市価が下落してしまったんです。

 

櫻田 経営を引き継いで早々、そんな状態では、大変でしたね。アルギン酸事業から手を引こうとは、お考えにならなかったんですか。

 

笠原 それは考えました。会社に余裕のあるうちに、転身を図ったほうがいいというアドバイスも受けました。健康食品への進出を検討したことがあるのですが、私は製薬メーカー出身だけに、科学的根拠の乏しい健康効果を宣伝することに、自信が持てなかったんです。大手化学メーカーから化成品の下請け生産をする話もあったのですが、これも他人様の製品を作るだけの仕事だし、もうかりません。それにもう一つ、父が最期の床でこう言ったことがあったんです。「おれはアルギン酸ひとつ、満足にできなかったな」と。この事業にかけた父の強い思いにふれた気がしました。そのことも思い出し、結局、事業転換することは断念しました。

 

 

座して待つよりアルギン酸に懸ける

櫻田 逆に、アルギン酸事業に踏みとどまった、積極的な理由というのはあったのでしょうか。

 

笠原 父の従兄弟で、笠原工業社長だった笠原良平さんが当時、当社の経営を支援してくれていました。その笠原良平さんがアルギン酸事業について、「君のお父さんはいい仕事を残してくれたね」と言われたんです。「一から自分たちでやってきた事業は強い。いざというときも応用がきく。やり方を工夫すれば、もうかる事業にできるはずだ」と。笠原工業は戦前、日本有数の製糸会社でしたが、戦後は製糸が斜陽化し、電子部品の受託生産などを手がけるようになりました。しかし、他社からの請負仕事なので、ノウハウも利益も蓄積できないそうです。笠原良平さんの言葉は目から鱗でした。確かに、当社は、アルギン酸では日本のパイオニアです。その強みを生かしたほうが道は開ける、企業の存在価値を保つことができるだろうと考えたんです。「座して死を待つより、アルギン酸に懸けてみよう」と。

 

櫻田 それで、アルギン酸事業で、攻めに転じられたんですね。具体策の一つが、海藻の産地である南米のチリに工場を開設したこと。

 

笠原 そのとおりです。チリは南北に細長い国ですが、現地を調べてみると、エルニーニョで海藻が獲れなくなったというのは、実は北部だけで、南部には海藻があったんです。現地に張り付いていないと、正確な情報が取れないと痛感しましたね。当時、海外の原料産地に工場を作った日本企業は珍しかったんですよ。チリは、法制も経営環境も日本とはまるで違うので苦労しましたが、いまでは経営が軌道に乗っています。

 

櫻田 その一方で、日本の千葉工場も維持されています。

 

笠原 私は「NOと言わない」経営方針で、社員が「そんな条件では作れません」というオファーでも、片っ端から引き受けていました。すると、生産ラインがフル稼動するようになって、千葉工場の生産性は2倍くらいに向上し、製造コストも下がったのです。チリの工場と比べても、価格競争力があるので、海外移転の必要もない。産業空洞化で下がっていた国内社員の士気も上がりました。
 これでダメかというようなピンチを乗り越えるたびに、決まってあるベテラン幹部がこう言うのです。「先代が見守ってくれてるんですよ。『おれの思いをくんで事業を発展させようと頑張ってくれてる。しっかりやれよ』と」。そうか、それなら思い切ってやろう、そういう思いが日に日に強くなりました。

 

 

食品用アルギン酸でアジア市場で成長を目指す

櫻田 それこそが先代が築かれた御社の文化ということなんでしょうね。現在、キミカさんの経営方針はどのようになっていますか。

 

笠原 当社は、アルギン酸に経営資源を集中させ、他社の追随を許さないアルギン酸のトップメーカーを目指しています。アルギン酸関連製品では、約500種類のスペックがあり、ジャスト・イン・タイムで、グローバルに供給できるのが、当社の強みですね。汎用品と違って、“ワンユーザー・ワンスペック”の製品も多いので、代替されにくく、価格競争に巻き込まれない利点もあります。

 

櫻田 早くからグローバルに事業展開をしてこられたわけですが、今後については、どのような見通しをお持ちでしょうか。 

 

笠原 アルギン酸の主力市場は北米で、日本とチリの工場から製品を送っています。しかし、北米市場は飽和状態なので、中国や東南アジアといったアジア市場に目を向けるべきでしょうね。とりわけ、サンドイッチや菓子パン、惣菜などに使われる食品用のアルギン酸の副資材は有望だと考えています。この副資材を使うと、例えば、パンをチルドで保存していても、水分を吸収してしっとり感が長持ちするんです。アジアでは、日本のコンビニが増えていくでしょうから、それに応じてアルギン酸の需要も伸びるでしょう。当社は、海外事業も基本的に自社で手がける方針ですが、自社製品を海外市場で着実に育成するには、そのほうが得策だと考えるからです。

 

櫻田 最後に、笠原社長が大切にされている信条をお聞かせください。

 

笠原 ビジネスでは、利口に立ち回るよりも、“誠実さ”のほうが重要でしょう。振り返ってみると、お取引先と長年の信頼関係を築けたのは、根本に誠実さがあったからだと思います。

 

櫻田 中国をはじめとする海外メーカーの安値攻勢に苦しめられている中堅・中小企業が多いなかで、御社のとられた戦略は、一つのお手本になり得る可能性がありますね。含蓄に富んだお話の数々、とても勉強になりました。本日はありがとうございました。

 

 

*『CEO社長情報』vol.18掲載

 

|ゲストプロフィール

笠原文善(かさはら・ふみよし)

1956年千葉県生まれ。早稲田大学大学院修了後、81年持田製薬株式会社に入社。研究開発の技術者として、細胞科学研究所に勤務。84年株式会社キミカに入社。技術課長、管理部長、常務、専務を歴任し、01年より現職に就く。

 

 

株式会社キミカ

業 種●アルギン酸およびその応用製品の製造・販売
設 立●1946年11月(創業:1941年5月)
資本金●1億円
売上高●約80億円(連結)
住 所●東京都中央区八重洲2-4-1 常和八重洲ビル8F
電 話●03-3548-1941
URL●http://www.kimica.jp/