新会社のカルチャーをつくろう

「ニューノーマル視点の経営」をコンセプトに販社を統合

職先の限られる島内を離れ本土で進学、就職

櫻田 この夏、サッカーのワールドカップブラジル大会がありました。新家社長は、試合をご覧になっていましたか。

 

新家 ええ。日本が負けて、悔しい思いをしました。もっと世界で頑張ってほしかったですね。私は、昔からバレーボールを観戦するのも好きなんです。

 

櫻田 日本のバレーボールはかつて強かったですよね。新家社長は、バレーボールをされていたんですか?

 

新家 そうなんです。中学からやっていました。私は淡路島出身なんですが、小学生のときだったか、東京オリンピックで金メダルを獲った女子バレーチームが近所に来たんです。その圧倒的な強さから、当時「東洋の魔女」と呼ばれていました。彼女たちを目の前で見たんですが、すごい迫力でしたね。その影響で、バレーを始めたんです。

 

櫻田 淡路島ですか! ご実家は海の近くなんですか?

 

新家 いいえ。私の家は島の真ん中、山のほうにあったので、海岸まで行くのに、自転車で20分くらいかかりましたよ。淡路島は島といいましても、周囲が200キロもあるんです。私は中高一貫校に通っていたんですが、学校は海沿いの洲本市にあったので、バスで通学しました。 

 

櫻田 高校を卒業したら、淡路島を出ようと考えておられたのですか。

 

新家 私は、四人兄弟の次男坊で、独立しないといけないという感覚でした。島内では就職先が限られ、選択肢があまりありませんでした。本土の大学を出て、本土で仕事を探したほうがいいだろうと。それに、本土で一度、生活してみたかったんです。

 

櫻田 淡路島と本土とでは、その頃の街の様子はずいぶん違っていたのでしょうか。

 

新家 ええ。例えば、淡路島には電車がない。小学生のとき、本土で電車に乗ってすごく感激したことが、ずっと記憶に残っていました。

 

 

 

ビジネスマンなら商社マン38社を訪問するも最終面接で不採用

櫻田 京都の大学に進学されました。

 

新家 京都に憧れていたことが大きいですね。京都は修学旅行で行ったことがあるんですが、日本の文化の中心だったところじゃないですか。京都の大学以外は、行く気はありませんでした。

 

櫻田 どんな学生生活でしたか。

 

内田洋行ITソリューションズ

・新家俊英社長

新家 講義にはあまり出ませんでしたね。その代わり、好奇心が強かったので、旅行にはよく行きました。アルバイトに明け暮れ、お金が貯まったら旅に出るというパターンの繰り返しです。ドライブしながら、みんなで山陰とか信州とかへ遠征していました。

 

櫻田 法学部ご出身ですよね。法律を学ぼうとお考えになった理由は?

 

新家 「弁護士になりたい」という夢があったんです。でも、弁護士になるのは途中であきらめ、企業に就職することにしました。

 

櫻田 どんな企業に就職したいと、お考えになったのですか。

 

新家 商社ですね。ビジネスマンだったら、やはり商社マンだろうと。

 

櫻田 新家社長は、好奇心が旺盛だからでしょうね。商社なら出張や海外駐在の機会も多そうですし。

 

新家 そんなところです。38社に企業訪問をしたんですが、大半が商社でした。でも、大手商社は、英会話での面接などもあって苦戦し結局、最終面接で落ちてしまいました。

 

 

「君には見どころがある」一次面接で運命的な出会い

櫻田 内田洋行さんを選ばれたのはどうしてですか。

 

新家 就職試験がきっかけだったんです。実は、内田洋行は、商社では第三志望くらいだったんです。ところが、一次面接で人事の方に、「君は最終面接で不採用になるタイプだな」と言われたんです。自分を見透かされたみたいで、ドキッとしました。そうしたら、その方は、「しかし、君には見どころがある。どうだ。もう他社は受けずに、うちにこないか」と言ってくれたんです。そこで、二次面接、三次面接を飛ばして、すぐに社長との最終面接をセッティングしてもらい、その場で内定をもらったんです。

 

櫻田 まさに、運命的な出会いですね。それにしても、その人事の方はすごい。将来、経営を担う逸材をその場で見抜いたんですから。その方とは、その後もお付き合いはあったんですか。

 

新家 いまでも連絡を取り合っていますよ。もう退職されましたが、ユニークな人で、奈良で畑を耕し、マイブランドの漬物を作っているんです。私が社長に就任したことを報告したら、とても喜んでくれました。

 

櫻田 入社されると、すぐにコンピュータ部門に配属されたとか。

 

新家 自分で希望したんです。内田には新人向けのレクチャーがあって、本人に配属先の希望を聞く仕組みがありました。当時、事務機器部門、教育関係部門、コンピュータ部門の三つがあったんですが、電子計算機事業部(コンピュータ部門)の先輩の、「これからはコンピュータの時代だ!」というスピーチを聞いて、「カッコいい」と思ったんですね。そこからITの営業一筋でしたね。

 

 

飛び込み営業は1日30〜40件経営者の方と直接交渉という仕事にやりがいを覚える

櫻田 その頃はまだ、コンピュータの黎明期ですよね。コンピュータ部門の業績はいかがでしたか。

 

新家 売上げは小さかったんですが、利益率が高いので、社内の稼ぎ頭でしたね。それに、売上げがどんどん伸びていて、勢いがあった。実は、コンピュータ部門は、業績がよかったので、ボーナスもたくさんもらえたんです。新人でも月給6ヵ月分くらい出たんじゃないかな。使える経費も多かったし、ついていました。

 

FutureOne・櫻田浩社長

櫻田 コンピュータ部門に行くのに、競争率は高かったんですか。

 

新家 そうでもありませんでした。当時の主力は事務機器部門だったので、事務機器部門も人気が高かったですね。

 

櫻田 とはいえ、法学部ご出身で、いきなりコンピュータの営業というのは、きつくなかったですか。

 

新家 大変でした。何しろ、「ビット」「バイト」といったコンピュータ用語すら、聞いたことがなかったんですから。セールスのパターンを何とか覚えて、営業に行きましたよ。

 

櫻田 私は、昭和62年(1987年)に日本IBMに入ったんですが、当時はパソコンでも1台100万円以上しましたよね。新家社長は、どんな製品を扱っておられたんですか。

 

新家 企業向けのUSACというブランドのオフコンです。ハードがメインだったんですが、内田は、他社に先駆けてソフトもセット販売していたんです。

 

櫻田 新人のときの営業成績はいかがでしたか。

 

新家 おかげさまで、よかったですよ。新人のときは、大阪市大淀区を担当して、企業に片っ端から飛び込み営業をかけました。1日30~40件は回ったんじゃないかな。コンピュータがまだ普及していなかったせいか、中小企業の経営者はコンピュータに興味津々で、話を聞いてくれることが多かったですね。相手が乗り気になったところで、コンピュータをお客さんのところに持ち込んでデモ(実演)をするんです。経営者の方と直接交渉で商材を売るので、仕事にやりがいを覚えました。

 

 

不本意な名古屋転勤「嫌いです」で第2の運命的な出会い

櫻田 反対に、苦心されたことはなかったですか。

 

新家 当時のコンピュータは、操作性がそれほどよくなかったんで、止まったりしてしまうトラブルはよくありましたけれど。でも、振り返ってみると、大らかないい時代でしたね。

 

櫻田 大阪には何年いらっしゃったんですか。

 

新家 それが、わずか2年で名古屋に転勤になったんです。やっと大阪に慣れてきたところだったので、不本意でした。名古屋に赴任して、先輩に「名古屋は好きか?」と尋ねられて、「嫌いです」と言ってしまった(笑)。その先輩が向井さん(内田洋行元社長・現顧問)なんです。

 

櫻田 これまた、運命的な出会いですね。

 

新家 向井さんには、いろいろなことを教わりました。コンピュータを直販していたんですが、面白いように売れました。名古屋には5年いて、そこで妻との運命的な出会いがあって。次は広島に転勤になりました。

 

櫻田 広島ではどうでした?

 

新家 岡山県担当になって、ウィークデーは岡山を回っていました。一人娘が生まれ、土地も気に入ったので、転職して岡山に住み着こうかと思ったくらいです。でも、8年後に大阪に戻ることになってしまった。

 

櫻田 転勤が多かったんですね。

 

新家 ええ。大阪では課長になって、7年半後に、オフィスブレイン(内田洋行ITソリューションズの前身の一つ)に金沢支店長として出向しました。金沢には4年いて、大阪に戻って西日本の営業を統括する部長になったんですが、その7年半後、向井さんから、「東京のウチダユニコムの社長になってくれ」と言われました。

 

櫻田 御社の前身の会社ですよね。社長に初めて就任されたときはどうでしたか。

 

新家 トップになったのは初めてですから、不安だらけでしたね。まず約150人の社員と面接して、どんな会社なのかを知ろうとしました。夢中で走っているうちに、何とか慣れていった感じです。ちょうどリーマンショック直後で、ウチダユニコムも2009年度、10年度は業績がよくなかった。11年度は何とか利益を確保でき、胸をなで下ろしました。

 

 

給与や年金を統一社内ルールを徹底しグループ販社を統合

櫻田 11年には、ウチダユニコムさんを母体として、地域ごとに分かれていたグループ販売会社が合併して、御社が誕生したんですよね。

 

新家 そうなんです。今年7月からは、内田洋行ITソリューションズ西日本を合併し、社員630人、国内22拠点、年商100億円規模の全国区の会社になりました。実は、ウチダユニコム社長になるときに、私が経営統合をとりまとめるよう内命を受けていたんです。ウチダユニコムの経営と並行して、1年間で合併準備もしないといけなかったので大変でした。同じグループといっても、お互いにカルチャーが違う。経営統合にはエネルギーが要りましたね。

 

櫻田 経営統合では、どんなことに苦心をされましたか?

 

新家 私は「ニューノーマル視点の経営」をコンセプトに、「前の会社のカルチャーは忘れて、みんなで新会社のカルチャーを作ろう」と社員に呼びかけました。いままでの仕事のやり方を変えるのは、社員にとって抵抗が大きいんですが、断行しました。例えば、社内規程が各社で違っていたのを同じにしました。給与体系も年金制度も統一しました。社内ルールを徹底させるために、管理部門を強化しました。

 

櫻田 営業の現場からは反発もあったかもしれませんが、営業のオーソリティーである新家社長のお考えだから、説得力がありますよね。御社ではいま、何を目指しておられますか。

 

新家 経営統合のシナジーを追求します。5社が一緒になっても、5のままではだめで、6にも7にもしないといけない。さらに、グループの役割分担も見直さないといけません。たとえば、内田洋行には、直販部門や卸部門が残っています。内田洋行はソフトの開発機能に特化して、販売機能は当社に集約するべきでしょう。

 

櫻田 グループ再編に向けて、新家社長が積極的に動かれると?

 

新家 そうです。これからは内田が親会社、当社が子会社という意識も変えないといけない。人事では内田からの天下りの受け入れではなく、対等な人事交流を進めています。役員もプロパーから積極的に起用しました。私も内田から当社に転籍し、当社に骨を埋める覚悟で、事業に取り組みます。新会社の次代を担う経営陣も育成しないといけません。やるべきことは山積みですね。

 

櫻田 お話をうかがって、日本各地にお詳しくて、多岐にわたる人脈をお持ちの新家社長だからこそ、経営統合を見事に成就されたことがわかりました。私たちのお手本です。とても勉強になりました。御社のこれからの発展が楽しみです。本日はありがとうございました。

 

 

*『CEO社長情報』vol.15掲載

 

|ゲストプロフィール

新家 俊英(しんけ・としひで)

1956年兵庫県(淡路島)生まれ。80年内田洋行入社。2004年内田洋行情報システム事業部第3ソリューション営業部部長。07年内田洋行執行役員に。11年(株)内田洋行ITソリューションズ設立とともに、代表取締役社長に就任。

 

 

株式会社内田洋行IT所リューションズ

業 種●システムインテグレーション並びに業種向け基幹システムパッケージ開発・販売・サポート
設 立●1969年3月8日
資本金●4億6000万円
売上高●106億円(2014年7月期)
住 所●東京都港区新橋6-1-11 Daiwa御成門ビル
電 話●03-5777-6621
URL●http://www.uchida-it.co.jp/