「設計」と「経営戦略」の橋渡し、
企業を支える新たな手法でニッポンの元気を取り戻す

建築家に必要なのは、施主を喜ばせる工夫や話題の提供

櫻田 森永さんのご出身はどちらですか? あまり子供の頃のお話を聞いたことがありません。

 

森永 出身は東京なのですが、父が転勤族で2~3年に一度、引越しをするような家庭で育ちました。おかげで知らない人のなかに入って人間関係を築く術が身につきました。

 

櫻田 建築の道を志したのはいつの頃でしょうか。

 

森永 子供の頃から、絵が好きだったんです。高校生のときは理系の学科が得意でしたので、理系で美術系というと、建築なんですよね。適性診断でそう出ました。

 

櫻田 比較的早くに将来進むべき道を決められていらっしゃったのですね。

 

森永 いいえ、大学に入ってからも「なぜ自分は建築学科に入ったのだろう」とずっと悩んでいました。大学3年のときに、大学の先輩である新居千秋さんという米国で活動された建築家の方が、非常勤で教えにこられていてその講義を聞いて、それが、「設計の仕事」を意識するようになった最初です。

 

櫻田 新居千秋さんの授業は特別だったのですか。

 

森永 ルイス・カーンという20世紀を代表する米国人建築家の事務所で働いておられた方で、そこのレクチャーをそのまま授業に採用されていたんです。「私はクライアントで君たちは建築家だ。私は自分の家を建てたい。君たちは私にどんな家を建てればいいか、提案しなさい」と。

 

櫻田 それは、楽しそうですね! 毎週、設計図を持っていくとか?

 

森永 いえいえ、学生なのでほかにも興味のあることはいっぱいあり何も用意できないときもあるのですが、それでも「クライアントに会う以上は、何か話題を提供しなさい。施主を喜ばせる工夫をしなさい」と。

 

櫻田 なるほど、それは面白い。普段の生活や遊びのなかからも、建築に結びつく話題を見つけるわけですね。

 

森永 知識を詰め込む決まりきった授業ではなく、それで「設計は面白いぞ」と。ところが、大学4年で進路が固まらないまま、卒業が迫ってしまいまして。研究室の先生に「5年間は修行」と、OBのいる設計事務所を紹介されました。5~6人のアトリエでした。

 

 

モノづくりの一から十までを学んだ9年間の修行時代

櫻田 それで5年間は、そちらで働かれていたのですか。

 

森永 まさかの9年間おりました。仕事の半分は大手住宅メーカーの下請けで、まあ体のいい営業サポートですね。最初の仕事は忘れもしません、住宅を建て替えるお客様の家のブロック塀によじ上って、巻尺で長さを測るというものでした。初日でやめたくなりました(笑)。

 しかも、アトリエ事務所で給料が安い。でも「好きなことやって勉強もできるのだから、安くて当然」みたいな雰囲気がありました。

 

櫻田 それでも9年間も働かれていたのには、そこに何かがあったわけでしょう。

 

森永 はい。その事務所はプランテックのファウンダーである大江匡も勤めていた「菊竹清訓建築設計事務所」の流れを汲んでいたのですが、教育が本家を凌ぐほど正統的なもので。モノづくりの一から十までを、全部見られたのがよかったと思います。仕事も次第に下請けではない、独自のものが増えていきました。

 

櫻田 少人数だから分業制ではない。そういうところが、よかったわけですね。

 

森永 そうですね。しかし、小規模な事務所ということで限界もありました。もっと大きな仕事もしてみたいと。その頃、年に何回か必ず見る「夢」がありました。学生時代の仲間とバイクでツーリングに出かけるのですが、自分だけアクセルを吹かしても進まず、置いていかれてしまうという……。このままでいいのかという強い焦りですね。

 

櫻田 なるほど。目の前の仕事は充実しながらも、もっと大きな仕事に挑戦したいという夢というか野心というか、ですね。

 

 

上司に直訴しチャンスをつかんだ初の超高層物件

プランテックコンサルティング

・森永一郎氏

森永 それで、協働していた構造設計の方にプランテック総合計画事務所の大江匡(現取締役会長)を紹介してもらいました。当時はまだ20人くらいでした。

 

櫻田 それでも4、5人のアトリエから比べれば……。

 

森永 はい。それに少数精鋭で当時から業界で注目されるような仕事も手掛けていました。ただ、30歳を過ぎての転職でしたので、なかなかチャンスがもらえないという悔しさもありました。

 

櫻田 30歳で転職ですと、こちらの業界では厳しいのでしょうか。

 

森永 ええ、徒弟制度みたいなところがあるので、30歳だと〝できあがっている〟と見られます。それである日、当時の上司に「とにかく一度、俺をバッターボックスに立たせてくれと。チャンスをくれればヒットを打つから」と直訴したんです。それをきっかけにさまざまな仕事に絡ませてもらえるようになりました。

 

櫻田 見事宣言通りにヒットを打たれたのですね。渋谷新南口の〝柱のないビル〟(SANKYO本社)も手掛けられました。

 

森永 はい、入社して半年後くらい(1996年設計)です。あれはプランテックにとっても初の「超高層」物件だったんです。阪神大震災後で建築構造が厳しくなったなかで、ああいうデザインを実現できたという点でも、大きな経験になりました。

 

櫻田 あのビルは斬新ですよね。まるで建物が宙に浮いているような、不思議な印象です。

 

森永 内部にも画期的な工夫が取り入れられています。輻射冷暖房といって、温水や冷水を循環させビル全体の温度調整を行なうエコで人にも環境にもやさしいシステムを初めて採用しました。

 

櫻田 当時、われわれのオフィスの向かいにあり、初めて見たときには度肝を抜かれました。

 

森永 あのビルがその後のプランテックの代表的な仕事、たとえば二子玉川の「玉川髙島屋S・C南館」や品川の「ソニーシティ」などにつながっていったと思います。個人的にもあれ以来「バイクで置いていかれる夢」を見なくなりました(笑)。

 

 

設計そのものが経営戦略や事業計画に影響を及ぼす

FutureOne・櫻田浩 氏

櫻田 われわれフューチャーグループの旧オフィスのインテリアも、森永さんに手掛けていただきましたね。あれも相当にインパクトがありました。当社を訪れるお客様に、フューチャーがどういう企業であるかを強烈に印象づけました。

 

森永 あの仕事は御社の「ITコンサルティング」というビジネスがどうやって成り立っているのか、そこで働く人たちがどのように動きプロジェクトが進んでいくのか、その過程において空間がどうあるべきかを追及したプロジェクトでした。その後「プランテック」がコンサルティング事業に進出していく契機になりました。

 

櫻田 そうだったんですか。現在、森永さんが手掛けられているのは設計とは少し距離のあるお仕事ですよね。「コンサルティング」を事業として独立させようと思われたきっかけは何だったのでしょうか。

 

森永 企業の建築物を手掛けるなかで、メーカーの工場を設計する仕事が増えました。最初は外側の建屋だけ造るわけですが、機能性を上げていこうと思えば内部の生産ラインの組み立てにも関わることになります。すると、それはそのメーカーの中長期戦略や事業計画にも関わってくるんですね。それで、当初は設計を請け負うなかでのサービスとしてやっていたのですが、これは一つの業態になるのではないかと。

 

櫻田 なるほど。確かに生産の現場では建物の構造が、生産性に大きく影響します。しかし、設計と経営戦略の両方に通じている専門家はなかなかいません。そこに御社が入ることで、両者の橋渡しができる。

 

森永 その通りです。プランテックグループとしての多角化戦略もあって、企画・設計・海外支援・施工・ソフトウェアでトータルに事業展開していこうというなかで、各社の機能と役割が明確化されてきました。私は「ソニーシティ」の設計をやったあと、3年ほどしてこちら(コンサルティング)にきました。

 

櫻田 そうでしたか。。業務の中心が設計からコンサルティングに変わられて、特に気をつけられたという点はありますか。

 

森永 大きかったのは、設計業務とコンサルティング業務の違いは何かを明確にすることでした。設計では建物を建てることを前提に仕事が始まりますが、コンサルティングの場合には建物は建てない、という選択肢もあります。経営という広い視野で見ると、設計事務所では出せない答えがたくさんあることに気づきました。

 

櫻田 社員の方に戸惑いはありませんでしたか。

 

森永 もちろんあります。CM(コンストラクションマネジメント)、CRE(企業不動産)、SCM(サプライチェーンマネジメント)、BCP(事業継続計画)といった機能を付加したのは、設計会社からコンサルティング会社へ転身する戸惑いを、具体的なビジネスとして確立させることで、払拭するためでもありました。最近では、日本の産業再編に伴う設備投資コンサルティング、大災害に企業が耐えるための減災ビジネス、電力不足や円安によるコストアップに備えるエネルギー対策、少子高齢社会における医療分野など、新たな視点が求められています。

 

櫻田 それぞれの分野に専門のコンサルタントはいますが、全方位で目を配って間を取り持つという立ち位置は、これまでありませんでした。

 

森永 そうなんです。「ファシリティ」というコアのなかであらゆる分野を勉強して、ようやく仕事として成立するところまでもってこれました。

 

 

国の基準は頼りにならないだからこそ、当社の出番がある

櫻田 皆さん、かなりハードワークになりますか。

 

森永 仕事としての密度は濃いですが、時間的には設計よりは短期間で終わります。設計は時間をかけるほど、絵をたくさん描くほどにいい仕事になりますが、企画はそうではありません。実行に移し結果を出すのが目的なので、短期間でどんどん回っていきます。新しい試みもできるし、さまざまな分野とのアライアンスがあり、知識・経験・人脈が広がっていくのが面白いですね。

 

櫻田 われわれはIT分野からのコンサルティングですが、目指すところは似ていますね。

 

森永 建築設計者のことを英語で「アーキテクト」と言います。語源はギリシャ語の「アーキテクトン」で「アーキ」は統括者「テクトン」は技術者を指します。つまり、もともと「アーキテクト」は事業統括者を指す言葉だったのです。われわれは建築設計からスタートしましたが、アーキテクトの原点に立ち返り「ビジネスデザインをアーキテクトする」仕事をやっています。

 

櫻田 われわれの親会社「フューチャーアーキテクト」の社名にも、会長・金丸恭文の、まさに同じ思いが込められています。畑は違いますが、われわれは同じ理想を追求していますね。今後はどのような展開を考えていらっしゃいますか。

 

森永 企業として、いかに規模を維持していくかという課題があります。リーマンショックと東日本大震災で、成長が足踏みしましたが、3・11以降、建築設計の分野では、「減災」「BCP」「省エネ」などがキーワードになっています。

 

櫻田 災害対策は企業にとっても待ったなしで取り組まなければならない、切実な問題ですからね。

 

森永 そうです。耐震にせよ津波対策にせよ、国の基準が頼りにならないことが明確になってしまいました。どれだけの災害を想定し、どこまでの対策をとるのか、自分たちで判断しなければならない。この分野に、われわれへの要望があると思っています。

 

櫻田 それこそ、森永さんには東京都を設計し直していただきたいです。

 

森永 確かに戦後に造ったインフラが次々と寿命を迎えていて、東京という街を作り変える時期にきています。街作りでどう変わっていくのか、どう作り変えていくのか興味はあります。しかし、官庁が絡む話は時間がかかります。

 

櫻田 やはりそうですか(笑)。となると、民間力のほうで――。

 

森永 はい。現在のわれわれのお客様は、製造業を中心とした企業です。海外進出を含めて、ニッポンの企業に強くなってもらうことで、この国が元気を取り戻す下支えができればと思っているんです。

 

櫻田 そうですか。今後のご活躍が楽しみです! 今日は面白いお話を、ありがとうございました。

 

 

*『CEO社長情報』vol.8掲載

 

 

|ゲストプロフィール

森永 一郎(もりなが・いちろう)

1963年生まれ。86年武蔵工業大学工学部建築学科卒業、井上尚夫総合計画事務所入社。93年プランテック総合計画事務所入社、取締役。05年プランテックコンサルティング入社、06年同社代表取締役社長、クエリ・ソリューションズ(現クオリクス)取締役。現在に至る。00年「フューチャーシステムコンサルティングオフィス」で日経ニューオフィス賞、07年「ソニーシティ」でグッドデザイン賞、日本免震構造協会賞作品賞、等受賞。

 

業  種 ●コンサルティング
設  立 ●2003年11月
資 本 金 ● 3000万円
売上高●13億円(2013年3月期)
住  所 ●東京都千代田区紀尾井町3-6  紀尾井町パークビル7階(東京オフィス)
電  話 ●03-3237-3548
U R L ●http://www.plantec-consulting.com